東京高等裁判所 昭和33年(ネ)2246号 判決 1961年6月29日
常磐相互銀行鎌倉支店
事実
被控訴人(一審原告、勝訴)芳家泰吉は請求原因として、被控訴人は昭和三十一年四月二日控訴人常磐相互銀行鎌倉支店との間に当座勘定取引契約を締結し、同年十月五日右契約を解除するまでの間、何回も当座預金の預入と引出をなして来たが、預金者が預金を引き出す場合は、銀行所定の被控訴人振出の小切手によるか、又は被控訴人より手形の支払を委託した場合に限る約定であるにかかわらず、被控訴人振出の小切手がなく、また、被控訴人振出の約束手形による支払の委託もないのに、控訴銀行の右支店は被控訴人の当座預金より昭和三十一年八月一日、二十日、及び三十一日の三回に亘り、それぞれ金十万円宛合計三十万円を引き出されたと主張し、解約後の預金残金中右三十万円の支払請求に応じない。よつて被控訴人は控訴銀行に対し、右残金三十万円及びこれに対する支払済までの遅延損害金の支払を求める、と述べ、控訴人の抗弁に対する仮定的主張として、被控訴人の控訴銀行に対する昭和三十一年八月十八日現在の当座預金残高承認は錯誤に出たものであるから無効である。すなわち、被控訴人の娘元子が被控訴人に代つて控訴銀行との取引に当つていたものであるが、昭和三十一年八月十九日頃控訴銀行の集金人が残高承認書を持参し、これに承認印を求めたときは、丁度食堂の最も忙しい時刻であつたし、当座預金が預金者の小切手なしに引き出されるというようなことは想像もせず、凡そ銀行の計算なら間違いないものと信じ込み、承認書に捺印したのであるから、この承認がその重要な部分に錯誤があつて無効である。と主張した。
控訴人株式会社常磐相互銀行は答弁として、本件当座勘定取引契約は控訴銀行鎌倉支店のかねてからの取引先である訴外高橋宗治の特別の要請に基き、同訴外人の従来からの当座勘定と別個にしなければならない計算事務処理の便宜をはかるため、形式上の取引名義人を被控訴人としたに過ぎないのであつて、真実の契約当事者は右訴外人なのである。そして、被控訴人名義の当座勘定から金三十万円の預金を引き落したのは、右訴外人が同支店を支払場所として、訴外青木新次郎に宛て振り出した額面金十万円づつの約束手形三通につき、支払呈示があつた際、その都度、同人から口頭で被控訴人名義の本件当座勘定の預金より引き落されたい旨の委託があつたためである。
仮りに、右当座勘定取引が被控訴人と控訴銀行間の契約であるとしても、控訴銀行は本件当座勘定について、昭和三十一年八月十八日に決算をなし、同日現在の残高は金五万六千円となつたが、控訴銀行の右残高通知書による求めに対し、被控訴人は同月二十二日附書面で右残高に相違がない、とこれを承認したから、被控訴人はもはや異議を述べることはできないものである、と抗争した。
理由
本件当座勘定取引契約の申込をした者が真実誰であるかは暫らく措き、被控訴人名義で、控訴銀行に対し、昭和三十一年四月二日当座勘定取引契約の申込があり、控訴銀行鎌倉支店は右申込に承諾を与え、その後右口座に何回か預金の出し入れが行なわれたこと、同年八月一日、同二十日及び同三十一日の三回に亘り被控訴人振出の小切手によらず、又被控訴人振出の約束手形による支払委託がなかつたのに、右被控訴人名義の当座預金より夫々金十万円宛合計金三十万円が引き出されたことは当事者間に争がない。
そこで、右の当座勘定取引契約の申込をした者は被控訴人であるかどうかを調べるのに、証拠を綜合すると、訴外高橋宗治は昭和二十九年五月頃より鎌倉市職員共済組合より委託されて食堂を経営していたが、経営難に陥つたので、従来右食堂のコツク長として勤務していた被控訴人に、同食堂の経営を委託することになり、その収益は一切被控訴人の所得とし、被控訴人は一日金二千五百円の割合による金員を前記訴外人に支払うべきものと定め、かくして、被控訴人は昭和三十一年四月一日より同年九月末迄自己の責任において右食堂の経営に当つたこと、被控訴人は右経営開始に際し訴外高橋宗治のすすめにより、控訴銀行鎌倉支店と当座勘定取引をすることとなり、同訴外人に印鑑を渡し被控訴人を代理してその契約を結ぶことを依頼したので、同訴外人はこれに応じて、同年四月二日控訴銀行鎌倉支店において被控訴人を代理して前記のとおり被控訴人名義の当座勘定取引契約を結んだことが認められる。(訴外高橋宗治が右取引開始にあたり、控訴銀行々員に対し、本件取引は右訴外人の自らの経理上の便宜のため形式的に取引名義を被控訴人名義としたに過ぎず、実際は自己の取引口座であると洩らしたので、控訴銀行係員は左様に信じたとの点に関しては、証人高橋宗治が原審において「原告(被控訴人)名義の当座勘定口座をつくるとき、『この取引は芳家名義になつているが、本当は自分の口座で、食堂を確保するため一応こうして置くのだ』といつた記憶はない」と証言していることに鑑み、たやすく肯定できない。結局、控訴銀行係員が前記のように信じたと仮定しても、それは当事者が被控訴人であるのに、これを訴外高橋宗治であると誤信したことに外ならず、これにより契約当事者が訴外高橋宗治に変るものではなく、錯誤の問題が生ずるだけである。((しかし、錯誤は控訴人の主張しないところである))。)
以上の次第であるから、本件当座勘定取引契約の当事者は名実共に被控訴人であるところ、この種取引においてはその当座名義人の振り出した小切手や手形による支払委託がない限り、その当座預金を引き落せないことは、控訴人の明らかに争わないところである。然るに冒頭説示のとおり、控訴銀行鎌倉支店はこれに反して被控訴人の当座預金より合計金三十万円を引き落し、被控訴人以外の者に渡してしまつたのであるから、これをもつて被控訴人に対し右当座預金支払の効力を主張し得ないものというべく、従つて金三十万円に相当する分の預金は依然残存しているものと認めるほかはない。
次に証拠によると、昭和三十一年八月二十二日控訴銀行鎌倉支店の外務員田中初子が、同銀行の毎決算期に行なわれる計算に基く本件当座勘定の同年八月十八日の現在高金五万六千二百八十九円につき承認書を持参し、承認印を求めたところ、被控訴人を代理して銀行取引に当つていた訴外芳家元子は、銀行の計算であるから誤りがないものと思い込み、当座預金の出入を調査せずに右承認書に被控訴人の記名捺印をしてこれを交付したこと、及び当時当座預金照合帳は未だ被控訴人に交付されておらず、同照合帳は昭和三十一年十月か十一月頃に至つて預金残高に疑を懐いた被控訴人がその交付を要求して始めて入手したものであることが認められる。而してこの承認は、証拠によれば当座勘定取引契約締結の際の約定「当行は決算期毎に又は随時に当座勘定通知書を発送して当座勘定残高の承認を求めます。若し二週間内に回答がないときは当行の計算を承認したものとみなします。」との条項に基いたものであるが、その承認書なるものはある時期における残高を記載しただけで、それまでの預金の出入の記載もない極めて簡単なものである上、その承認の意義乃至効果については特段の定めがないから、かような場合は承認の意義については通常の意味に解すべくそれ以上の効果を持たせることは相当でない。従つて右の承認は「残高に計算違いはないものと認める。」程度のものと解するのが相当であつて、これを越えて預金債権の変動消滅を意図するもの乃至はそのような効果を附与されるもの、例えばそれまでに無効の預金引出しがあつたため、実際の預金残高より少い残高が記載されてある場合でも、右無効に引き出された預金を放棄するとか又はその預金を消滅させるとかの効果を有するものと解すべきではない。してみると、前記承認書に被控訴人の押印があつたからといつて、被控訴人の預金残高に変動を来たすものではないから、この点に関する控訴人の抗弁は採用できない。
よつて、控訴銀行鎌倉支店係員の無効の預金引落しにより、同支店の計算上出金となつた被控訴人の金三十万円の当座預金は、他に特段の主張立証がないから、依然残存しているものと認めるほかはなく、従つて右預金三十万円及びこれに対する完済までの遅延損害金の支払を求める被控訴人の本訴請求はこれを認容すべく、これと同旨の原判決は正当である。